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概要
トロッコ問題(trolley problem)は、英国の哲学者 フィリッパ・フット(1920-2010)が 1967 年の論文で提起し、米国の哲学者 ジュディス・ジャーヴィス・トムソン(1929-2020)が 1976 年・1985 年の論文で精緻化した倫理学の 思考実験。
現代倫理学の教室で最も広く知られ、心理学・認知科学・神経倫理学でも実験素材として使われている。
中身——二つのシナリオ
シナリオ A:分岐器
暴走トロッコが線路の先にいる 5 人 を轢こうとしている。あなたは分岐器のそばにいる。切り替えれば別の線路に進むが、そこには 1 人 が縛られている。切り替えるべきか。
多くの人は「切り替えるべき」と答える。功利主義(最大多数の幸福)に沿った判断である。
シナリオ B:橋の上の太った男
同じく 5 人が犠牲になる状況。あなたは歩道橋の上にいる。隣には体格の大きい男がいて、彼を突き落とせばその身体でトロッコを止められ、5 人は助かる。突き落とすべきか。
多くの人はこちらでは「突き落とすべきではない」と答える。助かる人数は同じなのに、なぜ直観が逆転するのか——これが問題の核心である。
論点
- 功利主義 vs 義務論 — 帰結(5 人助ける)が同じでも、手段としての人間の利用(カントの定言命法違反)は許されないのか
- 行為と不作為の非対称 — 切り替える(作為)と突き落とす(作為)は形式上どちらも作為。直観の違いはどこから来るか
- 二重結果論(doctrine of double effect) — 意図した結果と予見された副次結果を区別するカトリック神学の伝統。分岐器では「1 人の死」は副次結果だが、橋では手段として意図される
- 心理学的実験 — ジョシュア・グリーンらの fMRI 研究は、二つのシナリオで 異なる脳領域 が活性化することを示した
現代への示唆
1. AI 自動運転時代の選択
自動運転車が回避不能事故に直面したとき、歩行者 5 人か乗員 1 人か を選択するアルゴリズムを誰がどう設計するか。MIT の「モラル・マシン」プロジェクトが示すように、トロッコ問題は 21 世紀の工学的現実となった。
2. 経営判断の倫理構造
事業撤退で 1000 人を解雇すれば会社が救われ 9000 人が守られる——典型的なトロッコ構造である。数字だけでは答えが出ない ことを思考実験が明示する。
3. 直観を疑う訓練
シナリオ A と B で判断が揺れるのは、我々の道徳的直観が一貫していない 証拠である。経営判断でも「なんとなく正しそう」という直観は、しばしば別のシナリオで破綻する。直観を検証する訓練 としての思考実験の価値がここにある。
関連する概念
[功利主義]( / articles / utilitarianism) / 義務論 / カント / ベンサム / ジュディス・トムソン / フィリッパ・フット / 二重結果論 / モラル・マシン
参考
- 原典: フィリッパ・フット「中絶の問題と二重結果の教義」(1967、邦訳は『道徳のジレンマ』所収)
- 原典: ジュディス・トムソン「トロリー問題」(1985、邦訳『権利・補償・リスク』勁草書房、2015)
- 研究: デイヴィッド・エドモンズ『太っちょを殺しますか?——「トロリー問題」が教えてくれること』(鬼澤忍 訳、太田出版、2015)