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概要
ケアの倫理(ethics of care)は、キャロル・ギリガン(1936-)が 1982 年の著書『もうひとつの声で(In a Different Voice)』で提唱した倫理学の立場。
ギリガンはハーバード大学で師である ローレンス・コールバーグ の道徳発達理論の研究補佐をしていた。だがその理論では女性が男性より道徳段階が低く評価される傾向があり、彼女はこれに疑問を抱いた。調査を重ねた結果、女性は男性と異なる倫理的語彙を使っているだけで、劣っているのではない ことを突き止めた。
中身——二つの倫理
ギリガンは倫理を二つの声で描き分けた:
| 立場 | 問い | 核心 |
|---|---|---|
| 正義の倫理 | 規則・権利・公平は守られているか | 抽象的原理、独立した個人 |
| ケアの倫理 | 関係性は維持され傷は癒やされるか | 具体的文脈、相互依存する人々 |
正義の倫理は「ハインツのジレンマ」(妻の薬を盗むべきか)のような抽象的葛藤を 原理の優先順位 で解く。ケアの倫理は同じ問題を 関係者のニーズと関係の維持 から考える。
後に ネル・ノディングズ や ジョアン・トロント がこれを政治哲学的に展開し、「ケアする・ケアされる」関係 を社会の基盤とする理論が形成された。
論点
- 本質主義批判 — 「女性は関係重視」という図式は性別本質主義ではないか、という批判。ギリガン自身は「声は生物学的性別に固定されない」と応答
- 正義との対立か補完か — 現在の主流解釈は「二つの倫理は対立ではなく補完」。正義なきケアは依怙贔屓、ケアなき正義は冷酷
- 公的領域への展開 — 私的・家庭的領域の倫理とされたケアを、政治・経済にどう拡張するかが論争点
現代への示唆
1. 関係性の倫理——正義だけでは足りない
コンプライアンスや規程だけでは、職場の関係性は守れない。同僚の傷つきやすさに配慮する能力 は、ルールの遵守とは別次元の倫理的能力である。ハラスメント問題の本質はここにある。
2. ケア労働の経済的再評価
介護・保育・看護——ケア労働は GDP に反映されにくいが、社会の土台を支える。ケアの経済的再評価 は、次世代の資本主義議論の焦点になる。ESG の S(社会)は、ここに連なる。
3. 文脈依存型リーダーシップ
普遍的な「正しいリーダー像」を求めるより、目の前の人が何を必要としているかを読む 能力。ギリガンの洞察は、サーバント・リーダーシップや心理的安全性の議論と深く響き合う。
関連する概念
キャロル・ギリガン / 『もうひとつの声で』 / 正義の倫理 / コールバーグ / ネル・ノディングズ / ジョアン・トロント / フェミニズム倫理学
参考
- 原典: キャロル・ギリガン『もうひとつの声で——心理学の理論とケアの倫理』(川本隆史・山辺恵理子・米典子 訳、風行社、2022)
- 原典: ネル・ノディングズ『ケアリング——倫理と道徳の教育』(立山善康ほか 訳、晃洋書房、1997)
- 研究: 岡野八代『ケアの倫理——フェミニズムの政治思想』岩波新書、2024