Contents
概要
シベリア抑留(1945年〜1956年)は、第二次世界大戦終結後、ソ連が満州・樺太・千島列島等で武装解除した日本軍将兵・民間人を、シベリア・中央アジア・モンゴル等に連行し、強制労働に従事させた事件である。
抑留者数は約57万5千〜61万人。死亡者は約5万5千〜6万人とされる。最後の帰還者が日本に戻ったのは1956年——終戦から11年後だった。
抑留の経緯
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州・樺太・千島列島に侵攻した。8月15日の終戦後も攻撃は続き、日本軍将兵は武装解除のうえ捕虜となった。
日本側は、武装解除後の将兵は速やかに帰還できると想定していた。しかしスターリンは「日本人捕虜50万名をシベリアに移送し、労働力として使用する」と命令を出した。ポツダム宣言第9条は「日本軍は武装解除後、各自の家庭に復帰し、平和的生産的生活に就く機会を与えられる」と明記していたが、ソ連はこれを無視した。
抑留生活
抑留者は貨車で数週間にわたって移送され、シベリアの収容所(ラーゲリ)に収容された。
最初の冬が最も過酷だった。収容所の建設すら間に合わず、抑留者は極寒のシベリアで穴を掘って暮らした。零下30度〜40度の中での鉄道建設、森林伐採、炭鉱労働。食料は不十分で、栄養失調と疾病が蔓延した。
死亡者の大半は最初の1〜2年に集中している。その後、収容所の環境は徐々に改善されたが、帰還の見通しは立たなかった。
ソ連は抑留者に対する政治教育(「民主化運動」)も実施した。共産主義思想の注入と相互監視が行われ、抑留者同士の密告や吊し上げが横行した。この経験は帰還者の心に深い傷を残した。
帰還
1946年末から段階的に帰還が始まったが、ソ連は労働力の確保を優先し、帰還を遅延させた。日本政府の交渉力は限られ、冷戦下での政治的駆け引きに翻弄された。
1956年、日ソ共同宣言の署名により国交が回復し、最後の抑留者が帰還した。帰還者の多くは、日本社会で「赤」(共産主義者)の疑いをかけられ、再び孤立を強いられた。
現代への示唆
1. 組織崩壊後の「末端」の運命
国家という組織が崩壊した時、最前線にいた将兵は11年間も放置された。組織が倒産・解体された後、末端の従業員や下請け業者がどのような状況に置かれるかは、平時に設計されるべき問題である。
2. 出口戦略の不在
終戦時、日本政府は海外に数百万の軍人・民間人を残していたが、帰還の計画は存在しなかった。「始める」計画だけでなく「終わらせる」計画がなければ、構成員は取り残される。
3. 帰還後の排除
11年間の過酷な抑留を経て帰国した者が、「赤」の疑いで社会から排除された。組織のために犠牲を払った人間を、組織の都合で排除する構造は、最も深い不信を生む。
関連する概念
- [東京裁判]( / articles / tokyo-tribunal)
- ノモンハン事件
- 日ソ中立条約
- ポツダム宣言
- 冷戦