芸術 2026.04.17

シャガール

浮遊する人物と鮮烈な色彩で20世紀を代表するロシア系ユダヤ人画家。ビテブスクの記憶とユダヤ民話をパリ近代美術の言語で再構成した。

Contents

概要

マルク・シャガール(Marc Chagall、1887–1985)は、ロシア帝国ビテブスク(現ベラルーシ)生まれのユダヤ系画家。本名はモイシェ・シャガル。20世紀を代表する画家の一人でありながら、特定の「主義」への帰属を拒み続けた。フォービスム・キュビスム・シュルレアリスムのいずれの影響も受けながら、いずれにも収まらない独自の様式を築いた。

浮遊する恋人、逆立つ牛、花束を抱えた人物——シャガールの画面は重力と論理から自由である。その根源にあるのは、ユダヤ民話(ハシディズム)の精神世界と、ビテブスクの小さな町への尽きない郷愁だ。98年の生涯で約10,000点の作品を残した。

パリへの移動と様式の確立

1910年、22歳でパリに渡ったシャガールは、ラ・リュッシュ(「蜂の巣」)と呼ばれる芸術家共同住居に入居し、ピカソ・アポリネール・モディリアーニと交流した。キュビスムの幾何学的分解を吸収しながら、それを夢想的な物語性へと転用した。

1911年の《私と村》(I and the Village)はこの時期の代表作である。緑の顔の男と牛が向き合い、透明な円の中に農婦が踊る——現実のパーツが夢の論理で再配置されている。アポリネールはこの絵を見て「超自然的(surnaturel)」と形容した。シャガール自身はシュルレアリスムという呼称を終生拒否したが、その影響力は否定できない。

革命・亡命・大戦

1914年に帰国したシャガールは、ロシア革命後にビテブスク美術学校の所長に任命された。しかしマレーヴィチ率いる構成主義者との対立から職を追われ、1923年にパリへ戻る。

1940年代、ナチス・ドイツの台頭によりユダヤ人迫害の危機が迫ると、シャガールはアメリカへ亡命した。ニューヨーク滞在中に妻ベラを失い(1944年)、この喪失は以降の作品に深い陰影を加えた。1948年にフランスへ帰国し、晩年は南仏サン=ポール=ド=ヴァンスに定住。1985年に97歳で没した。

ステンドグラスと公共芸術

戦後のシャガールは油彩画にとどまらず、ステンドグラス・版画・陶芸・タペストリーへと制作を拡張した。

エルサレムのハダッサ大学医療センター礼拝堂(1962年)のステンドグラスは、イスラエルの12支族を主題とした12枚の連作として知られる。メス大聖堂(フランス)、ニューヨーク国連本部のステンドグラスも代表的な公共作品だ。光と色が建築空間と融合するこれらの作品は、絵画とは異なる時間軸——礼拝・瞑想・集会の時間——に介入する芸術として機能する。

現代への示唆

1. 複数の文化的出自を強みにする

シャガールはロシア人でもなく、フランス人でもなく、ユダヤ人として複数の文化の境界に生きた。「どこにも属さない」立場は弱点ではなく、複数の語彙を自在に組み合わせる源泉となった。グローバル組織の中で出自が特殊なメンバーは、しばしば最もオリジナルな統合者になる。

2. 記憶を資産として扱う

シャガールは生涯、物理的には戻れなかったビテブスクを描き続けた。故郷の記憶は客観的な情報としてではなく、創作の燃料として機能した。組織にも創業神話や初期のプロトタイプという形で蓄積された記憶がある。それを参照し続けることが、一貫したブランドを生む。

3. 流行の枠組みに入会しない自由

シャガールはキュビスム・フォービスム・シュルレアリスムのどれにも正式に「入会」しなかった。流行のフレームワークを外側から借用するだけでは独自性は生まれない。自分の問いに忠実であることが、長期的に固有の価値を生む。

関連する概念

フォービスム / キュビスム / シュルレアリスム / ハシディズム / ロシア・アヴァンギャルド / マレーヴィチ / アポリネール / ピカソ / ユダヤ民俗芸術

参考

  • 原典: マルク・シャガール『わが生涯』(前田礼 訳、みすず書房、2008)
  • 研究: Franz Meyer, Marc Chagall, Thames & Hudson, 1964
  • 研究: 坂崎乙郎『シャガール』(岩波書店、1986)

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