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概要
ケア論(care theory, ethics of care)は、1980 年代に キャロル・ギリガン(Carol Gilligan、1936-)の『もうひとつの声』(1982)から始まった現代思想の潮流。
コールバーグの道徳発達理論が「正義の倫理」(公正さ・権利)に偏っていると批判し、女性に多く見られる「ケアの倫理」(関係性・応答責任)を対等な道徳の源泉として位置づけた。
政治哲学者 ジョアン・トロント(Joan Tronto、1952-)は『モラル・バウンダリー』(1993)でケアを 「私たちの世界を維持・継続・修復するあらゆる活動」と定義し、政治的概念へと拡張した。
2010 年代以降、新自由主義下でのケア労働の危機(Care Crisis)として、ナンシー・フレイザーらが論じている。
中身——ケアの再発見
1. ギリガンとケア倫理の誕生
コールバーグの道徳発達段階論は男性を基準とし、「自律的個人が権利を調整する」モデル。ギリガンは 「女性は関係性と応答性で考える」と指摘し、両者の対等性を主張した。
2. トロントの四段階モデル
- caring about — 気にかける(ニーズの認識)
- taking care of — 引き受ける(責任)
- care-giving — 実際の世話
- care-receiving — 受け手の応答
この全体が相互依存の網の目として道徳的実践を構成する。
3. 再生産労働と家父長制
フェミニスト経済学は、家事・育児・介護などの無償労働(再生産労働)が市場経済の土台を支えているのに経済統計から除外されてきたと告発した。マルクス主義フェミニズムの流れに連なる。
4. ケアの危機(Care Crisis)
ナンシー・フレイザーは 「資本主義はケアを搾取しつつケアを破壊する」と論じた。
- 女性の労働参加でケア時間が不足
- 移民女性が先進国のケアを担うグローバル・ケアチェーン
- 介護・保育の慢性的人手不足
中心思想——自律的個人というフィクション
近代の正義論は、自立した理性的個人を前提に構築された。だがケア論は問う:
「誰もが赤ん坊だったし、誰もがいずれ介護を必要とする。自立した個人などフィクションである。」
人間は関係的・依存的存在である。ケアはオプションではなく、社会の存立基盤である。
論点と批判
- 本質主義の危険 — 「女性=ケア」と固定化する懸念
- 家父長制の再生産 — ケアを無償労働のまま評価する副作用
- グローバル不平等 — 先進国のケアを途上国女性が担う搾取構造
- 男性のケア参加 — 父親、男性介護者の可視化
現代への示唆
1. 再生産労働の再評価
育児・介護休業の充実、家事代行の社会化、ケアワーカーの賃金引き上げ——ケア労働をコストではなく投資と捉える視点は、人材戦略と社会設計の根幹に関わる。
2. ケアリング・リーダーシップ
従来のリーダーシップ論が「決断・指揮」を強調してきたのに対し、応答責任・傾聴・関係性に基づくケアリング・リーダーシップが注目される。とくに心理的安全性の確保、メンタルヘルス、1on1 文化は、ケア倫理の組織論的実装である。
3. ケア産業と高齢社会の経営
少子高齢化が進む日本で、介護・医療・保育は巨大市場であると同時に、慢性的人手不足の現場でもある。ケア労働の価値を社会的に再定義することは、経営者が取り組むべき社会課題の最前線である。
関連する概念
ギリガン / トロント / フェミニズム / 再生産労働 / グローバル・ケアチェーン / ロールズ
参考
- 原典: キャロル・ギリガン『もうひとつの声——男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』(岩男寿美子 監訳、川島書店、1986)
- 原典: ジョアン・トロント『モラル・バウンダリー——政治理論におけるケアの議論のために』(岡野八代ほか 訳、勁草書房、2020)
- 文献: ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(江口泰子 訳、筑摩書房)