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概要
道徳的相対主義(Moral Relativism)とは、「何が善であり悪であるか」という道徳的判断は普遍的・絶対的な基準によって決まるのではなく、それを下す文化・時代・個人の枠組みに相対的であるとする立場である。
この立場はメタ倫理学——道徳的言明の性質や根拠を問う哲学の一分野——において普遍主義(Moral Universalism)と対を成す。普遍主義が「殺人は文化を問わず悪い」と主張するのに対し、道徳的相対主義は「悪いとされる理由と範囲は文脈によって変わる」と応じる。
19世紀末から20世紀初頭の文化人類学の台頭が、この議論に実証的な燃料を供給した。フランツ・ボアズ(1858-1942)をはじめとする人類学者たちが、世界各地の社会で道徳規範が大きく異なることを記録し、ヨーロッパ中心的な普遍道徳観を揺さぶった。
相対主義の類型
道徳的相対主義はひとつの均質な立場ではなく、複数の層に分かれる。
文化的相対主義(Cultural Moral Relativism)は、道徳的正しさはその社会・文化の規範に相対的であるとする。ルース・ベネディクト(1887-1948)は著書『文化の型』(1934)において「良いとは習慣に適合していること」と端的に述べ、各文化の道徳体系は相互に比較不能であると主張した。
個人的相対主義(Individual Moral Relativism)は、道徳判断の基準を文化ではなく個々人の信念体系に帰着させる。これはより極端な形態であり、「道徳は各自が決める」という形の主観主義に近づく。
記述的相対主義と規範的相対主義も区別しなければならない。記述的相対主義は「道徳規範が文化によって異なるという事実」を主張するにすぎない。規範的相対主義は一歩踏み込み、「ゆえに他文化の道徳を批判してはならない」と主張する。前者は人類学的観察として広く受け入れられているが、後者は哲学的に論争的である。
批判と反論
道徳的相対主義に対する批判は多角的に展開されてきた。
最も鋭い批判は「自己論駁(Self-Refutation)」である。「すべての道徳的真理は相対的だ」という主張そのものが、文化・個人を超えて真であることを要求している。相対主義は自らの命題を例外として絶対化しなければならないというパラドックスを抱える。
実践的批判として、道徳的相対主義を徹底すると歴史的な残虐行為——奴隷制、集団虐殺、拷問——を「その文化の規範に従ったもの」として批判できなくなるという問題がある。ジェームズ・レイチェルズ(1941-2003)は『道徳哲学の基礎』(1986)の中で、相対主義が改革の可能性を排除する保守主義的帰結をもたらすと論じた。
擁護側は、相対主義は「他文化への敬意」を求めるものであって「批判の放棄」を求めるものではないと反論する。また、普遍主義が歴史上しばしば文化帝国主義の道具として機能してきたことも無視できない事実である。
現代への示唆
1. グローバル経営における倫理基準の設定
多国籍企業が直面するのは、本国では禁止されている慣行が進出先では標準とされるケースである。道徳的相対主義は「現地に従え」と示唆するが、実際にはコンプライアンス・リスクと評判リスクが両方に存在する。重要なのは、自社の倫理基準がどの部分は普遍的原則として不変であり、どの部分は文化的適応に開かれているかを事前に整理しておくことだ。
2. 多様性マネジメントの哲学的土台
チームの多様化が進むほど、組織内の道徳的直観のズレが顕在化する。相対主義的感受性——他者の規範体系を「間違い」と即断しないこと——は多様な組織の協働に不可欠である。ただし、それを「何でもあり」と混同すると組織の規律が失われる。相対主義は認識のツールであって、意思決定の棄権ではない。
3. 普遍原則の再設計
道徳的相対主義は普遍主義の反証ではなく、普遍主義を鍛え直す触媒として機能しうる。文化差を認識した上でなお「この原則は維持すべきだ」と言えるとき、その普遍原則ははじめて説得力を持つ。国連人権宣言の策定過程(1947-48)は、この緊張を実践の場で引き受けた試みだった。
関連する概念
[文化相対主義]( / articles / cultural-relativism) / [メタ倫理学]( / articles / metaethics) / [功利主義]( / articles / utilitarianism) / [カント倫理学]( / articles / kant-ethics) / [自然主義的誤謬]( / articles / naturalistic-fallacy) / [多文化主義]( / articles / multiculturalism) / フランツ・ボアズ / ルース・ベネディクト
参考
- Ruth Benedict, Patterns of Culture, Houghton Mifflin, 1934(邦訳:ルース・ベネディクト『文化の型』米山俊直 訳、講談社学術文庫、2008)
- James Rachels, The Elements of Moral Philosophy, McGraw-Hill, 1986(邦訳:ジェームズ・レイチェルズ『道徳哲学の基礎』古牧徳生・次田憲和 訳、次田憲和、晃洋書房、2003)
- Gilbert Harman, “Moral Relativism Defended”, The Philosophical Review, Vol. 84, No. 1, 1975