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概要
イラン革命(Iranian Revolution)は、1979年2月11日、アヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーを指導者とする大衆運動がモハンマド・レザー・シャー(パフラヴィー朝)を打倒し、イランをイスラム共和国へ転換した政変である。
20世紀後半における最大規模の民衆革命の一つとされる。宗教的正統性を国家原理の中核に据えた「神権共和制」を世界で初めて実現し、以後の中東・イスラム世界の政治地図を根底から変えた。
革命の背景
1953年、モサデク首相が主導した石油国有化運動は、英米が後援したクーデター(CIAオペレーション・アジャックス)によって阻止された。この出来事はイラン国民に西洋列強への深い不信を植えつけた。
1963年、シャーは「白色革命」を宣言し、土地改革・国有化・女性参政権付与・農村識字教育を矢継ぎ早に推進した。しかし急速な西洋化と世俗化は、バザール商人・農村層・シーア派聖職者(ウラマー)の強烈な反感を呼んだ。ホメイニーはこの時期から体制批判を公言し、1964年にイラクへ追放された。
政治的抑圧の担い手はSAVAK(国家情報治安機構)であった。CIAとモサドの訓練を受けたこの秘密警察は、反体制派の組織的な拷問・暗殺で知られ、国内に蓄積された不満の焦点となっていた。
革命の展開
1978年9月8日、テヘランのジャレ広場で政府軍が群衆に発砲し、多数の死者が出た——「黒い金曜日」と呼ばれる事件である。シーア派の弔いの慣習である40日サイクルの追悼集会がさらなる抗議を生み、運動は連鎖拡大した。
1979年1月16日、シャーが「療養」を名目に出国。2月1日、ホメイニーがイラク・フランスでの15年間の亡命生活を経てテヘランに帰国すると、数百万人が空港に押し寄せた。2月11日、軍が中立を宣言し、革命政権の樹立が宣言された。
同年11月には急進派学生が在テヘラン米国大使館を占拠し、外交官444日間人質事件(1979〜1981年)へと発展した。これが米・イランの国交断絶と長期的な対立構造を固定化する転機となった。
革命後の体制
ホメイニーが提唱した「ヴェラーヤテ・ファギーフ(イスラム法学者による統治)」理論が国家原理に採用された。大統領・議会という共和制的機関と、最高指導者・護憲評議会・専門家会議という神権的機関が並立する、歴史上ほぼ類例のない二重権力構造が成立した。
隣国イラクのサダム・フセインは革命の「輸出」を警戒し、1980年にイランへ侵攻した。イラン・イラク戦争(1980〜1988年)は両国に膨大な損害をもたらし、革命後の体制を長期的に固定化した。
革命の波及は中東全域に及ぶ。レバノンのヒズボラ創設(1982年)、イラクのシーア派運動への影響、サウジアラビアとの「シーア派の三日月」をめぐる対立——現代中東の地政学的断層線の多くは、この革命に源流を持つ。
現代への示唆
1. 急速な近代化がもたらす反動
白色革命の教訓は、外部モデルを急速にインポートする改革が既存の秩序との摩擦を生み、やがて激しい反動を招くことを示す。組織変革においても、変革のスピードと現場の受容性のギャップを軽視すると、崩壊の引き金となりうる。
2. 正統性の根拠をどこに置くか
イラン革命は「神の法(シャリーア)」を正統性の根拠とした。民主主義・市場原理・法律・慣習のいずれに正統性を求めるかは、組織設計においても根本的な問いである。正統性の根拠が揺らぐとき、権威は急速に崩壊する。
3. 情報統制の逆説
SAVAKによる徹底した言論弾圧も、カセットテープで密かに流布したホメイニーの説教を止めることはできなかった。情報流通が多様化した現代において、組織内の不満をトップダウンで抑圧する戦略は、むしろ爆発的な反発を招く。
関連する概念
ヴェラーヤテ・ファギーフ / SAVAK / パフラヴィー朝 / シーア派 / 白色革命 / ヒズボラ / モサデク / 冷戦 / オイルショック / イスラム原理主義
参考
- Nikki R. Keddie, Modern Iran: Roots and Results of Revolution, Yale University Press, 2003
- Ervand Abrahamian, Iran Between Two Revolutions, Princeton University Press, 1982
- ルーホッラー・ホメイニー『イスラーム統治論——法学者の統治』(富田健次 訳、法政大学出版局、1981)