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概要
アール・ブリュット(Art Brut)はフランス語で「生の芸術」「加工されていない芸術」を意味する。美術教育を受けず、既成の芸術界とも切り離された環境で制作された作品——精神科病院の入院患者、囚人、霊媒師、独学の農民——を指す概念である。
命名したのはフランスの芸術家ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet, 1901-1985)。1945年、スイスおよびフランスの精神科施設を訪問し、そこで目にした患者の作品に衝撃を受けたデュビュッフェは、この表現を「文化的芸術」(ブルジョワ的な美術市場の産物)と明確に区別するために命名した。
概念の背景には、20世紀初頭の精神医学と芸術の交差がある。ドイツの精神科医ハンス・プリンツホルン(Hans Prinzhorn)は1922年に著書『精神病者の芸術性』を刊行し、ハイデルベルク大学診療所が収集した数千点の患者作品を分析した。この研究はシュルレアリスムやダダの芸術家たちに広く読まれ、「狂気の中の創造性」への関心を高める文脈を作った。
デュビュッフェの思想と収集活動
デュビュッフェは1948年、アール・ブリュット協会(Compagnie de l’Art Brut)をアンドレ・ブルトンらとともに設立した。パリとニューヨークを経て、最終的に自身のコレクションをスイスのローザンヌ市に寄贈。1976年に開設されたコレクション・ドゥ・ラール・ブリュット(Collection de l’Art Brut)は、現在も世界最大のアール・ブリュット専門美術館として機能している。
デュビュッフェが収集の基準としたのは以下の性質である。
- 文化的・社会的同調圧力から完全に切り離されていること
- 承認や販売を目的としていないこと
- 既存の芸術語彙を参照せず、独自の視覚言語を持つこと
代表的な作家として、スイスの精神病院で42年間にわたって8000点以上の作品を制作したアドルフ・ヴェルフリ(Adolf Wölfli)、シカゴで保険会社の用務員として働きながら秘密裏に約15,000ページの挿絵付き物語を作り続けたヘンリー・ダーガー(Henry Darger)、フランス南部の農民であるフェルディナン・シュヴァル(Ferdinand Cheval)——砂利道の石を集めて33年がかりで「理想宮」を建造した——などが挙げられる。
アール・ブリュットとアウトサイダーアートの差異
英語圏では「アウトサイダーアート(Outsider Art)」という用語が並行して使われるが、両者は厳密には異なる。
アール・ブリュットはデュビュッフェの定義に従い、作品選定が厳格である。制作者が美術界の文脈を一切知らず、かつ意図的に「外」に出ようとしたわけでもなく、ただ内的必然に従って制作した作品に限定される。
一方、アウトサイダーアートは1972年にイギリスの美術史家ロジャー・カーディナル(Roger Cardinal)が提唱したより広い概念で、自己教育型の芸術家や民俗芸術の担い手をも含む。商業的な文脈での流通も前提としており、1990年代以降はニューヨークを中心としたアートマーケットにおいて独立した市場を形成している。
デュビュッフェ自身は、アール・ブリュットが商業市場に取り込まれることを警戒していた。彼の概念はカテゴリーを作るためではなく、制度的芸術への批判として機能することを意図していた。
現代への示唆
1. 評価基準の外側に価値源泉がある
既存の評価軸——学歴、実績、著名な師——は、制度の内部でのみ機能する尺度である。アール・ブリュットが示したのは、その軸の外側に「制度では測定できない価値」が存在するという事実だ。採用・人材評価・商品開発において、自社の評価文法が無意識に優れた候補を排除していないか問う視点として有効である。
2. 内発的動機の純度
アール・ブリュットの作家たちは、承認も報酬も前提としていなかった。それゆえに独自性が生まれた。組織の創造性を考えるとき、「誰かに見せるため」の制作がいかに表現を均質化するかを示す事例として機能する。評価サイクルの外側で試みる時間の確保は、この観点から再評価できる。
3. 異質性の包摂とイノベーション
精神医学の文脈に置かれ、長らく「病理の産物」として扱われた表現が、20世紀後半に現代美術の重要な参照点となった。社会的周縁に置かれた視点が持つ革新性は、組織のダイバーシティ論が語る以上に、歴史的に繰り返し実証されている。
関連する概念
[シュルレアリスム]( / articles / surrealism) / [ダダイズム]( / articles / dadaism) / ハンス・プリンツホルン / アドルフ・ヴェルフリ / ヘンリー・ダーガー / 民俗芸術 / [現代美術]( / articles / contemporary-art) / 反制度芸術
参考
- Dubuffet, Jean. L’Art brut préféré aux arts culturels. Galerie René Drouin, 1949
- Prinzhorn, Hans. Bildnerei der Geisteskranken. Springer, 1922(邦訳:『精神病者の芸術性』、美術公論社、1983)
- Cardinal, Roger. Outsider Art. Studio Vista, 1972
- 鹿島茂監修『アール・ブリュット——魂の芸術』平凡社、2011